インターネットのあちこちで起こってる罵倒・暴言。それを大量に書き込んでいくさまは、大勢を利用して少数の者達をけなすイジメ行為以外のなにものでもない。
まともな感覚を持っているならば、そのような行為に眉をひそめるし、自分から進んで参加しようなどとは思わないでしょう。
ですが、人間というのは時としてそれを踏み越える時があります。
理由は様々でしょうが、次のような理由が考えられます。
・仲間が大勢いる(何かあったら助けてくれるだろう、という安心感)
・自分が正しいと信じている(例え少数であろうとも、正しいことを主張して行かねばならない、という正義感。そうやって主張している事が本当に正しいかは全く考えない)
・誰かに命令されている(生殺与奪の権利を握ってる者に言われたから仕方なくやっている)
・皆がやってるから自分もやる(明確な理由がなくても、人は大きな流れに逆らえないもの。それなら他の人と同じ事をしていたほうが楽。仲間がいるのも楽しい)
全てがそうだとは言えませんが、だいたいこんなのが理由なのではないでしょうか?
こういった連中を考える時に、通常の人々の考えや思惑を考えてはいけません。
荒らし・炎上・コメントスクラム、という罵倒・暴言の集合体は、普通の人間集団とは全く違った考え方で成り立っている、と思った方がよい。
ではいったいこういう連中はどういう集団なのか、ということになりますが。
これは狂信的な信仰団体、異様に結束の強い集団が最も近いと思います。
オウム真理教が最も分かりやすいでしょう。
ヤクザや暴走族などもこの類かもしれません。
これらに共通するのは、
・他に行くところがない連中が集まっている
・集まった連中同士で結束しないといけない
・結束するための簡単な手段は、仲間内の外に敵を作ること
・敵である理由は何一つ必要ない。適当にでっち上げればよい
・敵をたたくために皆で協力する
・その協力、誰かとの一体感が楽しい
・一致協力して事にあたり、それによって生まれる団結が楽しい という事でしょう。
これは人間の集団ならば大なり小なり持ってるものです。何も狂信者や暴力団に限った話ではないのが悲しいところです。
ただ、それでも普通ならば踏み越えない一線を簡単に踏み越えるのが、こういう集団が嫌われる理由であります。
人間というのは、仲間内の中だけで自分達の外にいる者達を非難する事はあるにしても、それを外部にまで持ち出さないのを暗黙の取り決めとしている所があるはずです。自分達だけで生きていく事はできない、とわきまえているならば。
多少複雑な思いを抱いていても、自分とそりが合わないと思っても、互いにどこかで一歩引いて変な摩擦は起こさないようにしていくのが、世の中を滑らかに動かしていく秘訣ではないだろうか。
ネットにおける暴言行為である「荒らし」は、そういった事を無視している所に問題があります。
人を人とも思わない暴言の数々、それを大勢でやるのは、
・相手が傷ついても構わない
・それで自分に被害があるわけではない
・仲間達とも仲良くできる
・仲間の外にいる連中がどうなろうとも知ったことではないというのが理由だと思われる。
これが人間の怖いところである。
良くも悪くも人間は集団で行動する。それは厳しい自然環境の中で生き残っていくための智慧でもある。
集団になれば集団内部での軋轢やいざこざも起こる。それは人間が自我や意志を持つ以上仕方がない。自分が大事、という考えがある以上、他の誰かより自分を優先したい、という思いを抱くのは当然ではある。
そんな人間が集まっているのだから摩擦が起こらない方がおかしい。
それでも完全に一人で生きていくよりは、他の誰かと行動していた方が生き残る確立は高くなる。自分一人でやらねばならない事も、何人かで協力すれば楽にこなせるようになる。
だからこそ人は集団をつくろうとするのだろう、と思う。
天性の我が儘、というようなものが人間には備わっている、とも言えるのかもしれない。
そういう人間が集まるのだから、それなりにストレスが溜まっていく。その解消先を「自分達」という括りの外に求めているのだろう。
こういう
「仲間の外側にいる人々への思いやり」が極度に欠けているのが、荒らしという連中だと思われる。
・外部への異様なまでの敵意
・内部に対しての異常なまでの温情
・自分達の仲間であり、自分達のルールに従う者への歪な優しさ これが行き着くところまでいってしまったのが、異常な宗教団体なのでしょう。
荒らしもこういった性質を備えている、と思います。
基本的にこういう集団は、仲間への攻撃はしない。
そんな事をすれば仲間の結束が崩れるからだ。
「俺達は絶対に傷つけ合わない」という事を無意識に守ってるからこそ、こういった集団は仲良くやっていられる。
とはいえ仲間を全く攻撃しないのか、というとそうでもない。
自分達のルールを守らない者には容赦なく攻撃する。元々仲間だったのだから、その攻撃は半端ではない。「仲間だと思ってたのに」という心理が働き、裏切り者には容赦ない攻撃を加える。
だからこそ抜け出すことができない。
入ったら最後、脱退することは不可能、とすら言える。
こういう集団なので、荒らしというのはこちらの理屈や意志は一切通じない。
話せば分かるなんていうことは絶対にない。「何を言っても無駄である」という悟り(あるいは、諦め)が必要になる。 抜け出せない理由は他にもある。
もともとどこにも受け入れて貰えなかった連中である。理由は様々だろうが、「ここ以外に行くところがない」となれば今射るところを死守するのは当然である。「そんな事やめて、まっとうに生きようよ」と言っても、そんな言葉を聞くことはない。
真っ当な生き方が出来なかったから、馬鹿げた事をしているのである。 中にはマトモな人もいる。
マトモな人が大半なのかもしれない。
そういう人が何で馬鹿げた連中の中にいるのかは大きな謎ではある。
だが、オウム真理教がやったやり口を真似ている可能性はある。
オウム真理教が入信者の財産を寄進として取り上げていたことをご存じの方もいるだろう。
これが命取りになる。
多少なりとも自分の自由になる金があれば、教団を抜け出して新たな一歩を踏み出す事も出来ただろう。だが、先立つ物がないと、どこにも行けなくなる。否応なく教団に協力して、教団(の教祖と幹部)のおこぼれ(かつての自分の財産)を得ることに汲々とせねばならない。
荒らしも似たような何かがあるのだろう。
大事な何かを握られ、それによって抜け出すことが出来なくなる。そういう状態だ。
あるいは、「お前もやってただろ」と言われているのかもしれない。共犯者に仕立て上げられ、その為逃げるに逃げられなくなる。
そういうものなのかもしれない。
暴言・罵倒を書き残していく荒らしという行為。
そいつらを見ているとどうにも上記のようなものに思えてきてしょうがない。
連中が書き残していく主張に何か意味があるのか、というとそんな事はない。言ってることをよくよく見てみると支離滅裂だし、矛盾がどこかにある。その矛盾も許容範囲を大きく逸脱している事が多々ある。
マトモそうに見える主張は建前で、本音はもっと別のところにあると思って見てみると結構それが見えてきたりする。 ようするに、
「面白いから暴れている」
という暴走族のような心理がそこにある。 言ってる事をまともにとらえてはいけない。
連中は自分に都合の良い言葉を並べて、それっぽい意味を創り出している。
だが、それはあくまで建前だ。
本音は「仲間と一緒に遊びたい」であり、その遊びのために他人を傷つける。荒らしの目的はたったそれだけの事であろう。 そんなものを寄せ付ける必要はないし、書き置きを残しておく必要もない。
目に留まったらさっさと削除するに限る。